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12-0307  曄歌制作の方法(研討) 二○○○年二月十九日 於中国五千年倶楽部
            
 中山栄造
 曄歌は日本の俳句に極めて近いということもあって、私が提唱し た四種類の新短詩の中でも最も人気があります。もともと「曄」とは「かがや く」といった意味なのですが、「日」と「華」を組合せた字を用いたのは、日 本人でも中国人でも出来る短詩となることを願ったわけで、中国人には大変人 気があります。

 これまでの両国の作品を見てくると、大きく云って三つの作り方があるよう に思います。第一は中国のこれまでの詩詞の作り方を踏襲したものです。つま り短いとは云え一種の中国詩として、伝統的な「起承転結」を持った作風と云 えます。実は私自身が俳句や短歌を作った経験がありません。だからこういう 方式で作るしか知らない。これに対して、第二の方法は日本の俳句的発想から 出発した作り方です。さらにそのどっちでもない第三の方法もあります。この 第二・第三の作り方は後に説明して頂きます。

 まず第一の伝統的作品の例として、私の作品を例に引かせてもらいます。

   燕双飛 紅落紫散 人未帰           中山栄造

  この曄歌は第一節「燕双飛」が起句と承句の役割をなしています。第二節「紅 落紫散」は転句の役割を果たしています。そして第三節「人未帰」が結句をな しています。つまりこれは長い物語が律詩に描かれ、絶句に描かれ、さらに短 い詩となっても手法としては変わらないことを意味しています。

 実は現在中国から葛飾吟社の手元に送られてくる曄歌は、殆どこの手法で作 られています。いかに中国の詩の伝統が根強いかを物語っていると云えましょ う。

 つぎに第二の方法については、俳句制作に詳しい今田さんから話して頂きた いと思います。

 今田述

 私が漢詩を作ってみようかと思ったのは今から五年前、会社勤務を リタイアしたとき「松戸市民新聞」という月刊地方紙に掲載された葛飾吟社の 「漢詩欄」を目にしたことに始まります。そこには主に中国から投稿された勝 れた作品が載っていました。明治時代の一流新聞にはみな漢詩欄があって、与 謝野鉄幹や成島柳北が選者を勉めていました。のちに正岡子規らがこれを真似 て「短歌欄」や「俳句欄」を作るようになりました。大正六年(一九一五)に 漢詩欄は一斉に姿を消してしまいました。おそらく今日漢詩欄を持っている新 聞は全国でもこの「松戸市民新聞」しかありますまい。

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 そのご縁で葛飾吟社の中山先生に接する機会を得、最初は絶句や律詩の作り 方をご指導頂きました。そのころここにいる小畑旭翆先生なども参加して来ら れました。そのうち中山先生が新短詩を中国に提唱されました。私たちにも作 れと云われたのですが、私も小畑先生も気乗りしないでいました。ところが中 国ではえらい人気になり、到頭北京の中華詩詞学会で取り上げられ、林林、李 芒、林岫らの諸先生のお招きで「中山新短詩研討会」が九七年秋、北京で開か れることとなりました。当時は正直云って訳も分からず出掛けて行った感もあ ったのですが、会議を通じておおよそ次のことが解って来ました。

 中国詩のなかで絶句や律詩は一部に過ぎないこと。それ以外に多くの「詞」 と呼ばれる形態があること。その中には十六字令のごとき短詩もあること。そ して一九八○年には日本から訪問した俳人団を迎えた宴席で趙朴初先生によっ て「漢俳」という短詩型(五・七・五)も編み出されたことなどです。

 さらにお土産に頂いた『漢俳首選集』の作品を見て行くと、日本の俳句ない し俳諧への指向が強いことも解ってきました。それならば僕らが俳句を作ると きに、同時に同じ詩的感懐を曄歌に詠んでもいいではないかと思ったのです。

私の作品例でその制作課程をご紹介します。

 一昨年秋江沢民主席が来日された折、東北大学で魯迅が学んだ教室を見学さ れたのを覚えておられるでしょうか。私はその直前偶然にもこの教室を見る機 会を得ました。そのとき少なからず感懐をもち、こんな俳句を作りました。

   魯迅医を棄てし教室秋のこゑ            今田 述

これはそのまま曄歌にすることができます。

   秋風溢 魯迅棄医 旧教室             今田 述

  勿論この曄歌は先の中山先生の作品のように完成された論理性を備えていると は云えません。その背景を知らない人にとっては何のことか解らないと思いま す。しかし魯迅が医学を学ぶために遥々日本へ来て、殆ど中国語を理解する人 もいない当時の仙台で苦労したこと、また日露戦争の幻灯写真を見て中国人の スパイが殺されるところを別の中国人が笑って見物している有様にショックを 受けたこと、そして体のための医学よりも中国人の心をまづ鍛える必要を痛感 し医学を棄てて作家を目指した経緯は、魯迅の短篇『藤野先生』に描かれてい ますから中国の文学愛好者なら知っていると思います。つまりこの句はそうい う経緯を前提として作られているのです。

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 こういう言外に万感を込める方法は俳句の常套手段であり、漢俳作家たちの 多くは芭蕉や蕪村の作品を研究していますから、きっと解ってくれる筈です。

  私は俳句を作るときも曄歌を作るときも同じ詩的感懐から出発するので、こう した課程をたどることが多いのです。

 さらにもう一つ、こういう方式なら今日の日本の俳人たちが誰でも容易に中 国詩の世界に入って行ける筈です。そういう凡例を示す必要があると思って実 践しているのです。

 中山 次に第三の方法について石倉さんに報告して頂きます。

中山 次に第三の方法について石倉さんに報告して頂きます。

石倉秀樹
  私は日本語には、「詩情」はあるが「詩」はないと思っています。韻を踏めないからです。学生時代にフランス文学を専攻し、詩ではボードレール、ベルレーヌ、ランボーなどの象徴主義の詩人に惹かれ、詩論ではヴァレリーに傾倒しました。ヴァレリーは詩を「システム」として考えました。西洋音楽には、聴く者にさまざま感興を呼び起こす音に、小節とか音階とか和声とかいうシステムがあり、そのシステムには数学的ともいえる明快な方法論があります。その音楽の富を、ヴァレリーは、詩に取り入れようとしたのです。詩についてのこのような考え方、方法は、わたしたちの日本語の世界では、残念ながら実現のしようがありません。

  私が漢詩を学ぶようになって最初に驚いたのは、フランスが19世紀にようやく到達したこの「システム」としての詩に、中国の詩人はすでに1000年以上も前の唐の時代に気がついていたということです。韻があることは当然として、平仄についての精密な規則があり、対句などのさまざまな技法を駆使し、おまけに、宋詞もある。唐詩から宋詞への発展は、あたかもフランスで厳密な構成をめざす象徴主義の対極に、自動速記によるシュールレアリズムの自由詩が試みられたことにも比すべきものです。宋詞は、定型詩ではありますが、句の字数を一定としないところに、自由詩の響きがあります。

  私はまだ曄歌を知るようになって半年ほどですが、600を超える曄歌を作っています。韻と平仄の勉強を兼ねていますので、かなりシステマティックな作り方をしています。

  漢詩を作る人は古くから「詩語表」なるものを熱心に作ってきました。そこには、千年を超える昔から詠まれた詩を分解して、韻律に従って二字単語と三字単語に抽出分類してあります。その中から三字単語を二つ選び出す。これで第一節と第三節を構成する。真ん中の第二節、すなわち四字だけは自分で考える。すると曄歌ができます。

  今田 ハハアなるほど。つまりレトルト食品を使った料理みたいなもんですな。

  石倉 はい。カレールーは出来合いのものを使います。詩人はもともと歌いたい詩情があって詩を作るものと考えれば、カレールーは自分で調合すべきでしょう。しかし、自分で調合したルーが自分の舌にあうとは限りません。読む人の舌にあうかどうかもわかりません。わたしのやりかたは非難もされるでしょうが、好きなルーを選ぶのは私ですし、混ぜ合わせる野菜をどう選ぶかも私ですから、出来上がった曄歌は、私の口には合います。偶然の面白さとでもいいましょうか、私が詠いたかったことは、こういうことだったのかということが、作ってみて初めてわかるという感興もあります。

石倉
月光新。雨留露滴,耀苔茵。   雨の露とどめて苔は月に映え
細雨頻。蛩声断続,夜聯晨。   こおろぎの鳴いて連なるあしたかな
拾枯薪。露営湖畔,月為隣。   湖の露営は月の隣なり